新入園・新入学・進級、新学なさる子供さんたち おめでとう。
何らかの形で、子供や孫たちとの結びつきを持つ皆さん、子供さん達と共々に新学期を迎えられたこと、有難いことであります。
・四代金光様のみ歌
父母は 子供と共に生まれたり 育たねばならぬ 子も父母も
改めて私たち親も大人も、子供らと共に育っている、育てられていることを思わされる新学期であります。
社会にあっては、平成28年度という新しい年度をスタートします。政治・経済・教育・文化とあらゆる営み、取組みがおかげの中(神様のみ恵・み働き・おぼしめしを頂いての中)で成就していきますよう祈らせて頂きたいものです。
先月 月次祭の日に、町内老人会の月例会が開かれました。教会長として当然老人会例会は欠席して、月次祭の準備にあたり、心静かに参拝の方々を待たねばならないことをわかっているのですが当日の例会は、前年に亡くなった会員の方を改めてまつり、偲ぶということでした。
それで私は、月次祭に差し障りのない範囲で参加しました。
つまり教会行事と町内行事が重なった時、町内行事を優先しました。教会行事がおろそかにならぬよう努力しましたが、これで良かったのか? 自問自答しながら月次祭を仕えました。
今年も教会行事と町内行事や、他の行事と重なることが生まれた時、どう判断し優先順位をつけるのか、その都度悩んだり迷ったり、お取次を頂くことになると思うのです。
日常の生活の中でも同じことが起こります。色々な取り組みをしたり、一生懸命になっている時、同時に別の取り組みが生じたとき、どうするのか?手を止めることができるのか、どちらを選ぶのか、問われます。
孫が泣いている、私は結界に座って神様の御用、立つべきか、じっと結界御用で耐えるべきか?どうしても見たいテレビ番組があって、しっかり見ていたとき、孫が「じいちゃん遊ぼう」とやってきたとき、どうするか?
○ 教祖ご理解 (天地は語る 教典抄 197 )
家族一同、仲よくして信心せよ。彼岸餅などをこしらえる時に、子供がそばで、くれ、くれと言うのを、神に供える前はいけないと言って頭を叩いたりしては、神は喜ばない。先に子供にやって喜ばせておいて、それから神に供えてくれれば神は喜ぶ。招かれて行っても、台所で子供が頭を叩かれて泣いたりしていては、ご馳走を出してくれても、うれしくはないであろう。
○(198)農作業で忙しい時など、ご飯を神に供えるのに、足が汚れているからと、めんどうに思って供えるのでは、神は喜ばない。それよりも、釜の中で少々かき寄せて、神様と言って拝んで、それをよく混ぜていただけ、神はそれを喜ぶ。
どういう取組み方、優先順位をつけていけば神様が喜ばれるか、ということですから、そこに人間心が出るとか、我情我欲が出てはダメでしょう。どこまでも相手も助かり自分も助かり、すべてが立ちゆくことにならなければならない。そこに一人でも迷惑をかけたり、不平不足が生じるようではいけないと思うのです。
では、どうすれば良いのか。
○祈りに祈る。○お取次を頂いて、神様のおぼしめしをどこまでも信じていく。
今年度もその判断力を求められ、優先順位のつけ方に間違いのないよう、おかげを頂いていかねばなりません。それは夫婦の上に、親子の上に、人間関係の上に、そして神様との関係の上に、です。
だから信心のしがいがあり、信心の取組みの素晴らしさがあり、その取組みの上に、ご都合頂けるのですから信心はありがたいのです。
○ (経典抄171) 手を洗ったり口をすすいだりしなければ信心はできないことはない。
農作業していて、肥料をあつかっている間に事が起こったとき、手を洗ったり口をすすいだりしていては間に合わない。そうした時には、すぐそのまま拝礼しお頼みもうせばよい。
○ (262)負けてこらえておれ。負ければ損をするからばからしいと思うかも知れないが、神がまた、くり合わせてやる。そして、人からもよい人と言われるようになり、身に徳がついてくる。
○ (375)たとえ人にたたかれても、決して人をたたいてはいけない。人に難儀をさせるな。よい心にならせてもらえばありがたいと思い、すれ違った人でも拝んであげよ。できるだけ人を助けるようにせよ。
○ (333)祈れ薬れ、にすればおかげも早いが、薬れ祈れ、にするからおかげにならない。
○ (280)神のおかげで生きていられる人間は、日々神のご用を勤めなければならない。毎日勤める家業は信心の行であるから、家業をありがたく勤めれば、日々ありがたいおかげが受けられる。
教会長 原 正忠
(広報誌のんのこ 2016年4月号より転載)
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