4月14日の夜突然、携帯電話に地震予告のアラームが鳴ったと同時に、教会建物がドンとなる音と共に突き上げられ、建物全体がガタガタ揺れだした。
恐怖が走った。熊本地震が発生し、多くの犠牲者が出ました。
二日経った今日も余震の揺れが連続して生じる中でこの原稿を書いています。
犠牲になられた方々のご冥福を祈り、「早く止んで欲しい」と神に縋りながら。
教会の前の道路を、町内の方が語りながら通られる姿が見える。今、熊本地方で避難し恐怖に震えている中、諫早の街ではいつもの変わらない風景を目にする。阪神淡路大震災・東日本大震災を見てきて、地震の怖さを知っていたつもりが、今、私自身に直接突きつけられる。
諫早に生まれて今日まで生きてきて、初めて体験した地震の揺れ、そして続く余震、“怖い”と思いました。
台風 水害とは、全然違う。何も見えない力。それがいきなり来る。
教会は今、天地金乃神大祭を迎えようとしている時、今度のことをどう受け止め、どう天地金乃神様へ心を向ければ良いのか?これまで取り組んできた私自身の“信心”が問われる様です。
夜中に起こされ、それからは不安と何とも言えないストレスが重なって眠れない。布団の上にじっとしておれない。洋服に着替えてから、歩き回りたい衝動にかられる。暗黒の戸外に飛び出せば、この動悸は静まるのであろうか。
「金光様、金光様」と、余震のたびに建具の揺れる音を聞きながらつぶやく。「早く止めてください」「早く終わらせてください」
静寂が訪れると、「一気に全てのエネルギーが放出されると、これ位の震度ではないはず。少しずつ小出しに神様がしてくださっているのだから、余震にお礼を言おう。」と少し心を神様に向けた自分がいる。お礼が言える心になると気もちが落ち着いてきました。
熊本では、外で寝泊まりされる人もあり、震えている多くの人がいます。どうぞ心身の丈夫と今後の復興と立ちゆくお繰り合わせを願っていきましょう。お亡くなりになった御霊様の助かりと立ちゆきを祈らせていただきましょう。
もし、私が金光教にご縁を頂いていなかったならば、他人事のように被害がなかったと安心し、日常と同じ過ごし方をしていたのではないのか。日常の当たり前の暮らしが悪いという話ではありません。今、金光教の信心をしている私だからこそ、他人事で済ませず、できる事があると思うのです。
天地は生きているからこそ、潮の満ち引きもあれば、地震もあると思います。人間心で津波を止めて欲しい地震を止めて欲しいと願って、本当に風が止まり潮の満ち引きも止まり、この天地が死んでしまえば人間は生きていけません。生きた天地の働きの中でこそ私たちは生かされています。天地のことは人間には分かりません。しかし親神様は、決して人間を苦しめようとして地震を起こしているわけではありません。震災で難儀に遭う人の苦しみは神様の苦しみであり、犠牲になられた方の悲しみは神様の悲しみです。神様は氏子に助かって欲しいと願われています。
天地の親神様の思いを受け入れ、また自らの生き方を振り返り、神と共に生きていくことを大切にしていきたいものです。
○ 天地のことをあれやこれやと言う人があるが、人間では天地のことはわからない。天地のことが人間でわかれば、潮の満ち干もとめられよう。
○ある人が、子供の数が多くそれぞれ性格が違うので困っているとお願いした。金光様はその人に、「もし、五本の指がみな同じ長さでそろっていては、物をつかむことができない。長いのや短いのがあるので物がつかめる。それぞれ性格が違うので、お役に立てるのである」と教えられた。
○ 信心していても、良いことばかりはない。悪いこともある。手にでも、表と裏とがあるようなもので、裏の出た時には、早く表の出るようにおかげを受けよ。
○ 心配が増したり、物事を苦に病むようになるのは、信心が落ちた証拠である。その時、これをありがたく思って信心すると、これが修業になって、また一段と信心が進んでいく。そうでないと信心が落ちてしまって、心配や苦難に負けて、どうにもならないようになってしまう。
○ 天地金乃神は、神、仏をいとわない。神道の身の上も仏教の身の上も、区別なしに守ってやる。神道も仏教も天地の間のものであるから、何派かに派などと、宗旨(しゅうし)論をしたり、凝り固まったりするような狭い心を持ってはいけない。心を広く持って、世界を広く考えていかなければいけなない。
教会長 原 正忠
(広報誌のんのこ 2016年5月号より転載)
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