ありがとうの気持ちを持って行動する

 暑中お見舞い申し上げます。

 日々健康で過ごせること、三度の食事が頂けること、風呂に入り布団に休めることなど、生活のどこをとっても当然・当たり前でないのだと受け止めて、有難い・もったいないという気持ちになることを求めています。教えられています。

 日々生かされて生きていることを自覚し、神様に・親様に・ご先祖様に感謝する生活を取り組んでいる私たち、今年もどれだけ喜びとお礼の心で【暑中お見舞い申し上げます】と言えているのだろうかと自問自答しています。

 

 先日、孫の運動会や夏まつりを見学・応援させて頂きました。孫が日進月歩、成長していく姿が見られ、嬉しい心持ちになりました。その嬉しい心持ちの裏で、「では“じいちゃん”と呼ばれる自分は、どれだけ成長した姿を見せているのか」と自問自答してみます。 

 四代金光様のみ歌に【父母は 子供と共に生まれたり 育たねばならぬ 子も父母も】とあります。

 子供に恵まれて初めて父母になる、父母が誕生するのです。孫を頂いて初めて、祖父母にもなれるのです。子供も父母も、孫も祖父母も、共に1歳であると、金光様はおっしゃっておられるのです。

    

 子供や孫の活躍を一生懸命応援しているお父さん・お母さん、嬉しそうに見つめているおじいちゃん・おばあちゃん、写真を撮ったりビデオ撮影している姿を見るにつけ、幸せな夫婦、親子の姿がそこにあります。見たところ何一つ不安も心配もない、ケンカも不平不足も、責め合いもない姿を見受けます。そうした若い家族を見て、金光教の教えはどのような働きを現すことができるだろうか。彼らに対して、金光教はどんな手を差し延べて、声をかけていけるのだろうかと、再び自問自答いたします。

 世間では18歳・19歳の若い人への選挙権が認められ、話題になり報道される今日。また、テレビのチャンネルを回すと、有名な歌手やグループのコンサート(サマーフェスティバル、ジャンボリー)が開催され、多くの参加者が、それに合わせて歌い踊っている姿が映し出されています。        

 皆はその瞬間を満足し喜び、感動して幸福感を得ていることでしょう。   

 一方では子供たちが犠牲になる事件事故、交通事故が次々に起こり、外国ではテロが度々起こり、心を痛める日々です。そこに宗教は、金光教は何ができるのか。何をしようとしているのか。

 

 教祖様は、天地金乃神様と出会われ【難儀な神の氏子が助かってほしい】と願われ、その神様の願いを実現するために“金光教”はできたのです。  

 では【人が助かる】とはどういうことなのでしょうか。

 孫の活躍を一生懸命応援している祖父母、子供が飛び跳ねている盆踊りを嬉しそうに見学しているお父さん・お母さん。コンサート会場で飛び跳ねて楽しんでいる観客の方々。みんな一生懸命に仕事をし、家庭を守り、やりたいことを実現するためにがんばっています。素晴らしいことです。では今楽しければ、それが【人が助かる】ということでしょうか。例えば「助かっていますか」とみんなに問うたら、どういう返事が返ってくるのでしょう。「助かっています」という返事でなく、「助かっているとはどういうことを言うのですか」との疑問が返ってくるのではないでしょうか。私は今の楽しさのその先にある【助かり】があると信じています。

 

  教祖様のみ教え  

 神の心にかなった者が少ない。財産と人間と健康とが揃って三代続いたら これが神の心にかなったのである。神の心にかなわないと、財産のあり力もあるが、健康でない。健康で賢くても財産をなくすことがあり、また大切な者が死んで、財産を残して子孫を絶やしてしまう。神のおかげを知らないから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き財産もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができる。

 

 無事、健康で子孫も続き財産もでき、(年まさり)代まさりのおかげを受けることが“助かっている”ということではないでしょうか。若い人も、夫婦も親子も、祖父母も、今一度、財産と人間と健康が揃うように、日々の生活に取組み、幸せ・喜びを積み重ねていかねばならないと思います。

 日々の生活を取り組み、進め、お役に立つために人としての成長が欠かせないのです。身も心も、死ぬまで成長を続けなければならないのです。    

 人は危ういものです。手を抜くと、すぐに後ろに戻ってしまいます。

 この「神の氏子としての成長」という点において、金光教はお役に立てるし、人々の心に響くものがあると私は信じます。   

 

金光教諫早教会長 原 正忠

(教会広報紙のんのこ 2016年8月号より転載)