天地の親神を信心するのである

 6月に開催される教師研修会の案内状が届いた。出席を予定しているので文面を読んでみると、研修テーマに《何をもって教師というのか、何をもって教会とするのか》と設定されていた。「さあ、どう答えよう」と自問自答していく中で6月を迎えた。5月のある週末から日曜日にかけてのことであります。土曜日に親戚方の50日祭(49日の法要に相当)があって、教会家族みんなで参拝させて頂きました。

 教会を空けたままで出発、神様・霊様にお留守番をお願いしてのことであります。

 ご信徒の方が[お願いに参拝した]とか、[近くまで来ましたので参拝]という時に、

教会が閉まっていたら[今日はおかげ頂けなかった]とがっかりして帰られるでしょう。玄関が開いていたら広前にお参りでき、結界に先生が座られていなくても心中祈念して帰ってくださり、メモを残していくこともできるので、少しはおかげ頂いてもらえると思い、家族全員が出かけなくてはいけない時は、閉めずにいます。

 前教会長・原正知先生は教会を留守にする時、閉めることが好きではありませんでした。誰か一人留守番をおくことになり、その一人の留守役がいつも母でした。それで、家族揃って外出することができませんでした。

 それでも、弟の結婚式が大阪であった時は家族みんなでの出席のため、父はご信徒の方に留守番をお願いしておられました。

 私は、前教会長のような御用姿勢がまだできずにいますので、以前は閉めて出かけていましたが、なんとか閉めずにいけないものかと考え、神様・霊様にお留守役をして頂いて、と勝手な願いを立てて、最近は出かけています。

 [今日は、先生は留守じゃった]と思わず、神様・霊様とゆっくりお話しして帰って頂きたいと、願わずにはおれません。

 おかげを頂いて、土曜日の留守中は大事なく、お繰り合わせを頂きました。

 次の日曜日、教会行事もなく一日中教会に居らせてもらおうと決めていましたところ、大阪からご信徒の方が帰省して参拝してこられました。ゆっくり話をしたり聞いたり、近況を報告しあったりと、有難い時間を過ごすことができました。

 もしこれが前日だったら、どうだったのでしょう。やはり教会はいつでもお参りできる状況、参拝者を迎えられるようにしていなければなりません。

 また、教会長は色々な御用の他に雑用があっても、すぐ結界に座れる位置にいなければならないと痛感させられています。 

 

○「みんなが、おいでくだされい、おいでくだされいと言うが、この方は神の前を

 留守にすることはできぬから、ここから外へは出られぬのじゃ。それでも、助け 

 てくだされいと言うて、一心に願うて来た者の所へ行ってやらなんだことは、一

 度もないぞ」と金光様はおっしゃった。恐れ多いことじゃと思うがなあ。いつ参

 ってもいつ参っても、変わらずご苦労になっておって、願うことを聞いてくださ

 る。ありがたいことぞなあ。

 

 【金光様は、いつ参ってもいつ参っても変わらずに願うことを聞いてくださる。有難いことぞなあ】とご理解がありますように、私も少しでもご信徒の方が、「いつ参っても変わらずに親先生が教会にいてくださる」という信用を受けるまでにならなければならないと思います。

 つい雑用が多くなったり、親教会はじめ隣接教会とのお付き合いがあったりして、教会を留守になることの多い4月5月でした。

 しかし今は、家内がいて息子家族がいますので、誰かがいる状態にあることが有難い・もったいないことだと思います。そのうちに孫たちが留守役もでき、参拝された方々のお名前だけでもお尋ねして、挨拶できるようになれば一層有難いと願っています。「早く大きくなれ、大きくなれ」であります。

 「親先生・親先生」と皆さんから声をかけて頂き、慕われて(?)いますが、それに応える働き・御用におかげを頂かねばなりません。

 孫たちのバトミントンの相手をして、すぐにバテるようではいけません。

 健康あってのこと、体力を頂いてのこと、このことを強く思わされています。

 

 先日、大学の同級生から東京で同窓会を開くとの通知がありました。今までは、長崎中心だったので何も気にしてなかった。東京からも参加してくれる大変さを感じてなかったように思えた。今度は自分が遠出しなければいけない。これこそ健康第一であります。願いをたて、健康に留意し体力増強に励むのではなく、心配を先に立てて、参加できるか参加止そうか、迷い悩んでいる近況であります。

 こういう時の私は、金光教の先生ではなく、一人の70代の老人になっています。

 

○信心する者が、喜ばない、つらい顔をして日を過ごしてはならない。天地の親神

 を信心するのであるから、天地のような広い心にならなければならない。

○おかげを受けられるか受けられないかは、わが心にある。わが心さえ改めれば、

 いくらでもおかげは受けられる。

○神を信じる者は、何をするにしても遊ばせていただくのである。広前に奉仕で遊

 ばせていただき、商売でも農業でも遊ばせていただいているのである。みな天地 

 の間にうれしく、ありがたく遊ばせていただいているのである。

 

 教会長・親先生という立場と、おじいちゃん・一人の老人を行ったり来たりしながらも、神様に喜んで使って頂けるよう願っています。   

 

金光教諫早教会長 原 正忠

(広報誌のんのこ6月号より転載)