生神とは、ここに神が生まれるということである

「生神とは、ここに神が生まれるということである」

 

 ご信徒の方の話の中で、「秋祭りの歌・童謡は、どういう歌詞でしたかね」となりました。「森の鎮守の神様の・・・」や、「今日はめでたいお祭り日、ドンドンヒャララ、ドンヒャララ」と口ずさみ、遠い昔を思い出してみますが、正確な歌詞が出てきませんでした。10月は、各地の鎮守の秋祭りが仕えられていました。金光教の秋祭りは、生神金光大神大祭という名前で仕えられています。

 金光教の開祖(教祖生神金光大神)が、明治16年10月10日に神上がりなされたことにより、次の年の式年祭をもって「教祖大祭」として仕えられてきました。その後、単なる式年祭として仕えられるのではなく、教祖金光大神様のお徳を称え、永世生き通しの生神金光大神取次にお礼を申し上げ、その働きを現代に受け現していくことを祈願する【生神金光大神大祭】として仕えられています。

 金光教本部にて10月1日、8日、10日と3回にわたって御大祭が仕えられ、全国から海外から、わが道にご信縁を頂かれた信奉者たち、その家族知人近隣の住民の方々が参拝して、盛大に仕えられました。その本部大祭の御比礼、お徳を受けて、その後各地の教会で同じ願いのもと、御大祭が仕えられています。諫早教会は、この地域では千秋楽にあたる11月最後の日曜日、26日に仕えさせて頂きます。

 教祖様は、幼名が香取源七と名付けられ、12歳で川手家に養子に入れられて、川手文治郎(通称文治と呼ばれた)と改名した。更に川手家の先祖の助かり立ちゆきを願って、赤沢文治と名乗るようになります。教祖様(赤沢文治)が何事も神さまにお伺いを立て、神さまの仰せどおりに努め、実意丁寧神信心に心を込めた生活を通して、神さまとの間に呼応する(受け返答する)働きが生まれます。        

 安政6年、神さまと人々とを取次ぎ結ぶ働きができあがります。これが人々の願いを神に届け、神の思いを人々に伝える【生神金光大神取次】の働きです。これをもって金光教ができたことになり、以来この道は158年と続いてきているのです。

 教祖生神金光大神様は、明治元年9月にこれまでの神さまとの関係による御信心の深まりに伴って、神様から【生神金光大神】という御神号を授けられます。

 今日私たちは、この“生神”の道を求め現す努力をしてきました。生神とは“ここに神が生まれる”という意味で、次のように教祖様はみ教え下さっています。

 

○金光大神のことを生神と言うが、金光大神ばかりではない。この広前に参っている人々がみな、神の子である。生神とは、ここに神が生まれるということで、金光大神がおかげの受けはじめである。みなもそのとおりにおかげが受けられる。    (金光教経典抄「天地は語る」第362項)

○人は金光大神のことを生神と言うが、金光大神も、あなた方と同じ生身の人間である.信心しておかげを受けているまでのことである。あなたも、神の仰せどおり真一心に信心しておかげを受け、人を助けて神にならせてもらうがよい。

(経典抄第363項)

 

 天地金乃神様から、生命を頂いた私たちは、「生かされて生きている生命」を大切にして、人が助かるお役に立っていかねばならないのです。            

 今月今日、毎日の生活の場に、有難いこと、うれしいこと、喜びとお礼の心が生まれる努力をしていかねばならないのです。それが“生神”であり、金光教で言う信心、“神人(しんじん)”なのです。

 ここに神が生まれた一コマを紹介します。

 ある日の夕方、秋晴れの空に飛行機雲が十文字に走りました。それにまず驚き、飛行機雲の上に宵の月がぽっかりのっているところを目撃しました。天地の働きの絶妙な瞬間を見た思いでした。

 また先日、ご信徒の方が境内地の草刈り奉仕をして下さいました。そのとき眼鏡を落とされたので、みんなで草の中から、トラックに積んだ草まで引っ張り出して探しても見つからず、諦めました。その数日後、家内が境内の草刈りの続きをしていたところ、あれほどこまかく探しても見つからなかった眼鏡が、近くに落ちていたと持って来ました。

 さらにご信徒の方が、ペットボトルを材料にして風車を作って下さいました。神様にお供えしたところ、それを見たご信徒の方が一言「広前は風がないから回らないさ」と言いました。それが私には神様が「風を吹かせてやりなさい」とおっしゃったように聞こえ、扇風機をつけるときれいに風車が回り出して、参拝者一同「あらー」という顔で嬉しくなりました。

 11月も皆様の周りに嬉しいこと楽しいこと、有難いことが生まれてくれば、それが【生神(ここに神が生まれる)】という働きがあり、皆様の所に神が生まれたまつりになるのです。

 教祖様のみ教えに

 

◯外へ出て畑の手入れをするにしても、神様と一緒にさしてもろうとるつもりですると、仕事が良くできる。麦の畔と畔の間をかくのにも、神様の有難いことを思

い思いするとえろうない。とあります。また別のみ教えに

◯10年の信心が続いたら、我ながら喜んでわが心をまつれ。とおっしゃる。

 そのわが心をまつるのが、私は【生神】であり私たち一人ひとりの有難いまつりと思うのです。

 《ここに神が生まれてください》と祈ります。    

金光教諫早教会長 原 正忠

(教会広報誌のんのこ 2017年11月号より転載)