足下(そっか)を見よ

 教会は、毎朝5時15分頃から参拝者と揃って早朝ご祈念をします。夕刻 本部のご祈念を遥拝しながら参拝者と揃って4時ご祈念をします。             

 参拝者の結界取次ご用がいつでもできるように、心がけて教会にいます。

このようなご用の合間に、楽しみにしていることがあります。

 

 先月、DVD/Blue rayを映し出すディスクプレイヤーを信太郎先生が調達してくれました。10年ほど前、VHSからDVDに移行しましたが、その流れについていけず多数のDVDが眠っていました。それをやっと見ることができるのです。中学・高校・大学時代の同窓会の記録や教え子たちが写っている写真を次々に開いて、懐かしい友に出会ったり思い出に浸ったりして楽しい時間を持つことができました。

 外は小雪が舞って冷え込みが厳しく、外出が億劫になり冬眠ではありませんが、教会でじっと冬の過ぎるのを辛抱して春を待つ老人がここにいます。

 さらに欲を言えば、10年・20年前に我が子や孫の色々なイベントや行事また教会大祭を8㎜テープに録画したものが多く残っています。このテープをDVDに移し替えることができればいいのにと、欲が膨らんできています。

 

◯あなた方は小さいことばかり考えているが、金光大神は、世界をこの道で包み回すようなおかげをいただきたいと思っている。【天地は語る395】

◯欲を捨てることについておたずねした時、「いやいや、私にも欲がある。世界の人を助けたい欲がある。欲を捨ててはいけない」と仰せになった。【同396】

 

  教祖金光大神様は、このような欲をお持ちでした。私の欲と教祖様の欲を比べることもできませんし、比べる質も内容も違いますが、73歳を迎える私にとっては、昔を振り返り青春を思い出すことは、老後の楽しみ喜びといったところです。

 たった一台の器具が整っただけで、これだけ日々の生活が現代と過去を行ったり来たりできていることを感心します。

 教会には、父の時代から撮られてきた写真も多く残っています。3度の教会移転にも関わらす生き残ってきた写真です。これもまた今後どう活用していけば良いのか。このままゴミをかぶり、教会の片隅で朽ち果てていくのでしょうか。最近、終活的なことばかりを考え整理している私です。

 

 教会の外の掲示板に『春よ、早く来い』という内容の文章を書きました。体調のこともあって、冬の苦手な私にとっては、春がそこまできていると実感したいのです。

 3月を迎えましたので、まさに春はお隣さんまで来ているのでしょう。1月2月と振り返ってみますと、「冬が苦手」と不足的に言っていますが、この冬はここまで

風もひかず、病院診察を受けずにいることを喜び、頑張って来たなと自分を褒め、そして見守り頂いた両親の霊様や天地の親神様へお礼を申し上げてから3月を迎えたいと思います。

 

 金光教学院(金光教の先生になるための養成機関。岡山県の金光教本部にあります)に入学した折、男子寮の玄関の壁に【足下をみよ】と書かれた掛け軸が掲げてあり、それを見ながら毎日出入して1年間勉学に修行に取り組みました。金光教の先生になるためです。

 事前の勉強も体験も少ない私にとっては、【足下を見よ】とは、足元のこと、靴や下駄のことであろうと考え、下足の履き方、脱ぎ方に気をつけ、お礼を言いつつ下足箱に入れていました。どんなに急いでいてもこの額を見て、反省し立ち止まり下足をそろえて合わせ、お礼を申し上げる生活に取り組みました。

 今、金光教の先生にならせて頂いて45年近くなりました。ここまでの信心の勉強・体験を積み重ねて来てやっと【足下を見よ】という意味するところが納得できて来ました。下足のことだけではなかったのです。下足のことばかりを大切にしてお礼を申しての1年間が、今思うと恥ずかしくなります。

 当時、信心の1年生だとすれば、それはそれで(下足で)良かったのでしょう。  

  73歳を迎えた今、【足下】とは何でしょう。

 私の足下には、教会があり家があり、家庭があり家族がある。諫早市という町があり西小路町という町内がある。中学・高校・大学の同級生に囲まれ、元気をもらい励まし合っている。教え子たちの成長が楽しみで、私に力をくれる。原家・長田家という親族たち家族が私の周りにいる。教会にご信縁頂いたご信徒の方々やその背後にご家族がいる。

 そうした人たちの中に私がいる。その人たちとの繋がり関わりの中で私は73歳を迎えられているのである。3月、改めてそうした人たちのことを祈り願い頼み合いしていきたい。

 全ての方々にお世話になったことをお礼いいながら3月を過ごしていきたい。

 

◯神を信じる者は、何をするにしても遊ばせていただくのである。広前の奉仕で遊ばせていただき、商売でも農業でも遊ばせていただいているのである。みな天地の間にうれしく、ありがたく遊ばせていただいているのである。【天地は語る104】

◯信心する者は、喜ばない、つらい顔をして日を過ごしてはならない。天地の親神を信心するのであるから、天地のような広い心にならなければならない。【同 112】

 

金光教諫早教会長 原 正忠

(教会広報誌のんのこ3月号より転載)