天地の親神を信心するのである

 5月3日長崎東部親教会にて、天地金乃神大祭が仕えられ、私、この度教話の御用を頂きました。講題として「天地金乃神は一段上の神 神たる中の神であろう」と教祖金光大神のみ教えから文言を取りました。

 金光大神のみ教え

◯ 伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美命(いざなみのみこと)も人間、天照大神も人間であり、その続きの天子様も人間であろう。神とはいうけれども、みな、天地金乃神から人体を受けておられるのである。天地の調えた食物をいただかなければ命がもつまい。そうしてみれば、やはりみな、天が父、地が母であって、天地金乃神は一段上の神、神たる中の神であろう。(天地は語る16)

 

 当金光教諫早教会の近くに、市でも有名な御館山神社、諫早神社があります。御館山神社では、境内地の山林を造成して梅の木を五十本近く移植し、梅園を作り、多くの参拝者で賑わったという新聞記事が載りました。諫早神社にては、神社の前を流れる本明川の河川敷を利用して、百年ぶりに流鏑馬(やぶさめ)が実施されました。それぞれの神社が、どんな名前の神様が祀られているかは、ほとんどの市民は知りません。それでも氏神様とか、農業の神様という認識で神社に参拝し御利益をいただこうとしています。

 

 金光教の神様は、そうした日本のあらゆる神様(水の神、稲の神、学問の神、商売の神など)と比べては、比較にならないほど大きな神様、神の中の神と頂いているのに、その神の働きを、御利益を現しきれずにいます。表現できずにいます。神様に対して申し訳なく、相済まない思いで悶々としていました。そんなとき、大祭教話のお役目を頂いたので、金光教の神様はこんな神様です。こんなに大きな神様です。私達の氏神様ぐらいのものでないことを示したかったので講題にしました。

 教祖金光大神様は、声もない形もないこの天地自然をご神体として、天地の間にいる全ての人を助けたいとの思いがあり、全ての人の幸せを願い、人間を生かしてくださっている天地の働き・恵みを神と頂き、現し示してくださったのです。

 

 金光教の拝詞の中で、次のように神様のことを表現しています。

大地(おおつち)の育(はぐく)み 時移るとも絶ゆることなく 年巡るとも尽くることなし 天地に生命(いのち)ありて 万の物生かされ 天地に真理(まこと)ありて 万の事整う かくも奇(くす)しき御姿 大いなる御働きを 天地金乃神と仰ぎ奉らん

 

 私達のまわりにあらゆる宗教宗派があります。それぞれが親様・先祖様から伝えられてきた宗教宗派の中で御信縁を頂いてきています。あまたの宗教宗派は、千年以上にわたる歴史を歩んできています。

 しかし金光教の神様は、昔からあった神様でありながら、この世に現れずにいました。江戸時代の末期、教祖金光大神様の神徳によって、初めてこの世に天地金乃神様が現れてきたのです。それ以来百六十年しか経っていないのです。教祖様は、この百六十年の歴史の中で、私達に「天地金乃神様は一段上の神 神たる中の神であろう」と示したのです。

 金光教に御信縁を頂いた私達、天地金乃神様を信心する私達は、今一度天地金乃神様のことを、生活のあらゆる事柄を通して、まわりの天地の恵み・働きを通して、実感し現していかねばなりません。

 息を吸うも吐くのも神の働きである。日のお照らしなさるのも、雨が降られるのも神の働きであると教えて頂いています。太陽を、日の出を拝む人があった。山や岩や川や滝を拝む人はあった。しかし、つばを吐いたり、小用を外でしたり、残飯を埋めてきたお土地を拝む人はなかった、と言われるように、この大地を教祖金光大神様は、農業を通して大切に扱われ、感謝を込めて、お礼を申し上げていかれたのです。そして「天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺社、氏子の家宅 みな神の地所」という極地に達されました。

 

 人間はみな天地金乃神から人体を受け、御霊みたまを分けていただき、日々天地の調えてくださる食物をいただいて命をつないでいる。昔から、天は父、地は母というであろう。天地金乃神は人間の親である。信心をする者は、一生死なない父母に巡り会い、おかげを受けていくのである。【同 45】

 

 梅雨の季節を迎えますが、雨が続こうが、じめじめした湿気を感じようが、風が吹こうが、落ち葉一つにでもお礼の心が生まれ、拝むことができるようになれば、天地金乃神様がそこに生まれてくださるのです。

 

 天地金乃神は天地を一目に見とおし、守っておられる。人間は神の氏子、神のおかげを身いっぱいに受けるように、この身この心を神に向けて信心せよ。何事も無礼と思わないで一心に取りすがっていけば、おかげが受けられる。枯れ木にも花が咲くし、ない命もつないでいただける。わが身におかげを受けて、難儀な人を助けてあげよ。【同95】

 信心する者が、喜ばない、つらい顔をして日を過ごしてはならない。天地の親神を信心するのであるから、天地のような広い心にならなければならない。【同112】

 

金光教諫早教会長 原 正忠

(教会広報誌のんのこ2018年6月号より転載)