教会はお話を聞いてもらえる場所

 教会は「話を聞いてもらえる」場所

 

 先日 お隣りのおばあちゃんが、夕方来教された。

 「只今、植木屋さんから電話があり、明日作業にくるから」とのこと。「また駐車場をお願いします」とのことだった。この地に教会を移転して以来、4年目になる。

 毎年数回 庭の手入れをされるたびに、このように挨拶に来られる。その都度  私は、「いつでも結構ですよ。黙って使ってもいいですから」と返事をする。が丁寧に挨拶をされる。

 教会としては、少しでもお役に立っているので嬉しいし、また近所付き合いを大切にしたいと思っている中、だんだん歩行も不自由になりつつあるおばあさんが、足元も暗い中、階段もある道を通って挨拶に来られる。

 この実意丁寧な生き方に感心するし、こちらが頭の下がる思いがする。

【教典】に次のようにある。

◯実意丁寧、これが金光様(教祖様)が神様からご信用を受けられて生神になられたもとじゃ。天地金乃神様を信心する者は、このもとの実意丁寧を一番に見習わねばならぬ。

 金光教にご信縁を頂き日々の生活の場で、教祖様のみ教えに基づく実践を取組む私たち。今月も改めて〔実意丁寧な生活〕をさせて頂き、世のお役に立っていきたいものです。

 

 先日宅急便が配達された。『キンコウキョウさんですね』と言われた。

 まだまだ「コンコウキョウ」と呼んで頂けない時がある。100%全ての人に「コンコウキョウ」と呼んでもらい、地域の方々に金光教のこと、金光教の信心による生き方を知ってもらいたいと願いを強くしています。

 

 教祖金光大神様は、【この道は“人が助かり”さえすれば結構です】と願われた。

 “神も助かり 氏子も立ちゆき”と神様は願われている。

 “助かる” “立ちゆく”とは、どういうことなのか?

 (毎日元気に過ごし、家族も健康である)(今日も一日三度三度の食事も頂けた)

 こうした生き方を“助かる”“立ちゆく”というのであろうか。

 誰しも健康であり幸せに過ごしたい、元気に学校に行ける、仕事ができる、みんなとも仲良くお付き合いができることが、“助かる”“立ちゆく”ことなのか? 

  神様のお徳を頂いて願い通りであるから“おかげを頂いた”という。

 しかし、自分の思い通りにならなければ“おかげがなかった”という事なのか?

◯ みな、おかげをくださいと言うが、果たして本当のおかげを知っているのか。自分の思うとおりを聞いてくださるのがおかげとは限らない。死んでおかげの者もあり、命をつないでもらっておかげの者もある。すべてこの世のことは天地金乃神のご支配であるから、神に任すよりほかはない。 信心していれば、その時は都合が悪いようでも、神の仰せにそむかないでいると、後になってから、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかってくる。これがわかるくらいの信心をしなければ、信心するかいがない。【天地は語る 131】

 

◯ だれでも、不幸災難に遭って困りきっている時に助けてもらったのは、この恩、このおかげを一生忘れられるものかと言うが、日に日に授かっているおかげは、案外知らないでいる。 神のおかげは、生きているから死んだからではない、いつも受け通しである。【同 129】

 

 教組様のみ教えを頂いてみると、又 教会参拝して先生のお話を聞かして頂くと、もうすでにおかげの頂き通しであり、おかげの中で生活をしていることがわかる。

 このおかげとは、神様(親神様)と共に日々生活し問題に取り組み、神様におすがりしている私たちである。

 こういう生き方をすること、できることが“助かる”ということであり、この“助かり”が子供・孫につながり、親様・ご先祖さまにさかのぼって“おかげを頂いている”と分からされた時“立ちゆく”ということではないのか。

一昔前まで“金光教は世界の名教である”と言われた。だんだん言われなくなった。

教外者で宗教学者の方々が、『金光教の良さをもっと世の人達に知ってもらわなければならない』と説かれる。

 私たちはそういう自覚を持って喜びを持って金光教の信心を取り組み、金光教の良さを現す努力をしてきました。

 金光教の魅力 とは何か?

 それは、私たちが“助かり”“立ちゆく”ために教会があり、そこに教会長先生が一日中教会の中で、私たちの参拝を待っておられる。

 そして参拝した人々の話を聞いてくださる。私たちの話を聞いてもらえる場所が教会である。

 話を聞いてくださる先生がおられる、取次の働きを持って、神と共に助かり立ちゆく生き方を実践しようとしている私たち。

 この魅力を・素晴らしさを、世の人たちに伝え・示し・現していきましょう。

 

金光教諫早教会長 原 正忠

(教会広報誌のんのこ2018年7月号より転載)