実りの秋。芋掘り、紅葉狩り、きのこ狩りと色々な行事があります。
日本の山の幸に感謝し、辺りの山々の紅葉を眺めつつ、山の神様 ありがとうという心になっている人は、どのくらいあるのでしょうか。
各地の小中学校で運動会。今は春に行われるところが多く、大きな様変わりしているようです。私の小学校の頃は、運動足袋といって、厚い木綿の生地で出来たものを履いて走っていたことを思い出します。まだ運動靴をなかなか買えなかった時代でした。また騎馬戦は、危険な競技だと意見が出て廃止されるなど、ひと昔前の秋の色々な行事に思いを馳せています。
金光教は、この十月を非常に大切にしています。
江戸時代の末 岡山県の大谷の里で、一農民であられた川手文治氏が、世の中の人々と同じように子供を亡くし、飼い牛を二年続けて亡くすなど、色々な難儀に出会われる中、神仏に助かり立ちゆく道を一心に求めておられました。
川手文治氏42歳の時大病に罹り、医者も手をはなす危篤の中、家族親族打ち揃って“病気平癒の祈念”をしていた時、天地の神様が現れました。
『戌の年 文治 その方は良い。よし ここまで這いながらでも出てこい。その方は、行き届いている。今年の正月三が日に 氏神社へ参ってきて、手を合わせてどのように頼んだか。氏神をはじめ神々はみなここへ来ている。その時、「当年42歳厄年。厄負けせぬようにお願い申し上げます」と頼んだであろう。本来なら熱病に罹るところを、熱病では助からないので、のどけ(喉の病気)に神がまつり換えてやったのである。信心の徳をもって神が助けてやる』
神様との出会いという体験。初めて神様からの思いが伝えられたこと、神様への無礼があったことの指摘。金神様(こんじんさま)はじめ神々様がこの場に集まって来ていることを知ったこと。熱病をのどけにまつり換えてもらったことなど、すでに神様のおかげを受けていることも知らされるのです。
この42歳の体験を通して川手文治氏は、神との関係・つながりを深められ、やがて文治氏の信心する神様は、次第にその姿を明らかにすることになり、のちに 「天地金乃神」へと神名が定まっていったのです。
川手文治氏 46歳の時(江戸時代 安政6年)神様から『農業をやめて天地金乃神
を助けてくれい。世間に多くの難儀な人があるから、取次ぎ助けてやってくれ。 神も助かり、人も立ちゆく。人あっての神、神あっての人、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く』と神様からの頼みが発せられます。
(【金光大神】本部教庁出版より)
川手文治氏は、この神様の頼みを受け止められ、農業をやめ取次に専念されることになります。金光教では、この時点を“金光教の成立”とみて、この神様のお知らせを【立教神伝】と呼び、今日までに大切に頂いてきています。
川手文治氏は、その後 教祖“生神金光大神”と呼び称えられ、多くの人々が取次
を頂いて助けられ立ちゆいてきました。その助けられた人々が、日本各地に広がって、その土地その場で教祖様さながらに取次の業(わざ)を伝え、そこにご神縁を
頂いた人々が救い助けられて来ました。
この神様の働き、神様と私たち氏子との働き合いが、途絶えることなく今日まで159年 教団として各地の教会が成り立ち、続いて来ています。
教祖 生神金光大神様は、明治16年10月10日 70歳をもって、神様の頼みを一生涯かけて取組み、神上がり(かんあがり)なされました。
金光教では、このおたち日(帰幽年月日)を大切にして、帰幽の翌年 教祖大祭として祭りが仕えられ、今日 生神金光大神大祭の名のもとに、本部大祭をはじめ各地の教会で大祭が仕えられています。
教祖様のご一生に思いをはせたり、教祖様と神様との関係(結びつき)を求め学んでみたり、天地金乃神様の思い・おぼしめしを頂き直すことは、大切なことであると思います。
天地金乃神様から、『その方の信心の徳をもって助けてやる』と言われた教祖金光大神様の信心の徳とは、【一生涯かけて神を神と立て仰がれた生き方、どこまでも
実意丁寧を貫き通された生き方】にお徳が身に付き現れたのです。
このような生き方を私たちは、少しずつでも見習う心を頂かなければならないと
思います。
金光教諫早教会長 原 正忠
(教会広報誌のんのこ2018年10月号より転載)