1年の総まとめ総仕上げ ー来年の立教160年に向かってー

 12月を迎えると、毎年前教会長 原 正知先生の言葉を思い出します。「12月は1年の総仕上げ、総まとめをする月です」と。年の初めに神様に願い、今年の目標を立てたわけですが、その願い目標は達成されたのか。言い換えれば、おかげになったのかを考える月です。もし達成されてなかったり、やり残したりしていれば、改めて神様にご都合立ち行きを願って、1つ1つ願い目標に取り組んでいく。その結果今年1年をまとめ上げる、きちんと整理して新年を迎えることが大事ですと仰っておられました。今年1年どんなことがあったのか、どんな取り組み努力をしたのか、どんな喜び悲しみがあったのか、振り返ってみてもいいのではないでしょうか。

 思い出せなくてもよい、忘れていてもよい、1年の全てのことが、今日1日のことが、おかげとなり神様に喜んでもらい、自分自身も頑張ったとお礼がいえればいいのではないでしょうか。

 

○信心していれば、目に見えるおかげより目に見えないおかげが多い。知ったおかげより知らないおかげが多い。後で考えてみてはじめて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者である。(教典抄『天地は語る』 第130項)

○信心はたやすいものであるが、みな人間からむずかしくする。三年、五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじまりであるから、その日その日のおかげを受けていけば立ち行くことができる。たやすく信心をせよ。(同 第97項)

 

 天地金乃神様を信心するご縁を頂いた私たち、教祖様のみ教えを一箇条一箇条頂いていけば、どんな取り組みをした1年だとしても、すでにおかげを頂いており、おかげの中で生活もした1年だったのではないでしょうか。天地金乃神様(親神様)に見とおし見守って頂いた。すでに願いは聞き届けていたぞとおっしゃってくださっているのですから、お礼申していきましょう。私なりに1年を振り返り、おかげの中の1年であったことを、書き記しておきたいと思います。

 先月10月、市主催の老人クラブ連合会ねんりんスポーツ大会が開催され、町内の方々と参加しました。福引きという種目に目の不自由な方の介添えとして参加しました。私が先導する予定でスタートに立ったのですが、号砲とともに相手のご婦人の方がしっかり走られ、私は介添えどころか引っ張られていきました。結果は1位でしたがその様子が地元の有線放送で放映されました。テレビ映りの悪い顔をした私の姿がそこにありました。もう少し、髪の手入れもし、ちゃんとした格好をしていなければいけなかったと反省。恥ずかしく、とても見られるものではありませんでした。

 娘が4月から壱岐に転勤になり、孫2人が母親について転校し新しい地での生活を始めました。早く新しい環境に慣れ、新しい学校友達と共によい体験をたくさん積んで欲しいとお願いしてきました。飛行機、船に弱い私にとって、壱岐はまさに海外です。なかなか簡単に壱岐まで行けずにいます。

 息子 信太郎師も神様から御用に使って頂いて、天草や大阪の方で講話の機会を頂きました。私も共にお育て頂きたいと願ってきた1年でした。

 1年の後半は危機一髪ということが続き、「信心の油断をするな」と言い聞かせてきました。

 一つは、八足の上に御神酒の載った三方と、盃すすぎ用の水が載っていました。それを落とさないように気をつけて八足を動かしたところ、バランスを失い、水入れは大丈夫でしたが、三方と御神酒が落下し、御神酒のビンが割れました。広前の畳には御神酒がかからず大事には至りませんでしたが、大失敗をしました。

 二つ目は、教会車の管理が十分できておらず、オイルが空になっていることに気づかず乗り回して、それを信徒の方が気づいて下さり大事に至りませんでした。

 三つ目は、8人乗りの教会車も、ガソリンを入れるときに、ついでに空気圧をみて下さいとお願いした。すると「ほとんど空気が入っておらず、このまま高速道路を運転していればアウトでしたよ」と言われました。

 大難は小難に、小難は無難のお繰り合わせを頂いての毎日でありました。残り1ヶ月、信心の油断をせず、教祖様の生き方“実意丁寧神信心”をしっかり実践していきたいと自らに言い聞かせています。

 来年(平成31年)は5月から新しい年号になります。新年号と共に、教団にとっては金光教が生まれて160年になります。教祖様が、天地金乃神様と出会われ、神様とあいよかけよという働き合いの中から、次々とありがたいことが生まれていきました。46歳のとき、神様からの頼みを受けて、家業であった農業をやめ、自宅を神の広前として、取次に専念されることになりました。安政6年(1859年)10月21日、この日を金光教の誕生(立教)の日としています。そこから数えて160年です。

 世の中の神の氏子である私たち人間が、難儀をしている。その姿をみて、神はつらい、悲しい。神も助かり氏子も立ちゆくために、神と氏子の間に立って取次をしてくれい。氏子を取次助けてやってくれいと神様から頼みがあったのです。天地金乃神様の信心するご縁をいただいた私たち。来年は願いも新たに私たちの手元のところに神様が生まれ、神様のみ心をいただき、神様と一緒にあいよかけよ(切っても切れない関係)の働き合いをしていきたいと思います。

 

金光教諫早教会長 原 正忠

(教会広報誌のんのこ2018年12月号より転載)