金光教 教祖様のみ教え
○桜の花の信心より 梅の花の信心をせよ。桜の花は早く散る、梅の花は苦労して いるから すぐには散らない。【天地は語る 256節】
とあります。教祖様が信心辛抱を大切にされた教えの一つです。
四年前 西小路町に教会移転してきた折、『この付近を《梅屋敷》と呼び、昔は梅の木が多くあったのです。』と伝え聞きました。地主さんからも『梅の木が二本ほどあります。諫早の殿様からの拝領の木と親から伝え聞いていますので、よければ切らずに残し、見守って頂くと有難いのですが』と申し出があり、その木を裏庭に移して今日まで管理してきています。今年も白い花が咲きました。樹齢も相当であろうことは、見て取れます、木の根のあたりが空洞になって枯れそうに見える中、精一杯生きていることを私たちに見せてくれます。その立木を見て、教祖様の【梅の花は苦労しているから散らぬ】このみ教えが浮かんできます。
暖冬の新年を迎え、はや三月を迎えようとする時、インフルエンザの流行の中 生身の体は頑張ってくれて、また神様のおかげを頂いて、この冬を越えようとしています。そうした中、境内地を始めまわりの町並みに、ちょっとした春を感じさせる出来事が芽生え始めています。
梅の白い花に誘われて、菜の花が咲き始めています。報徳大祭の前日昼食に、信徒の方とお嫁さんが、境内地に自生している フキノトウの天ぷらとノビルの酢味噌和えをして出してくださいました。物珍しいと共に大変美味しく、皆で喜んで舌鼓を鳴らしました。生身の体に活力が加わったようでした。
高校の卒業式、小・中学校の三学期の修了式など、三月も大きな行事があり、多くの思い出を築こうとしています。多くの思い出と共に、梅の白い花や黄色の菜の花が重なっていく時、《生命》を感じます。
朝目が覚めたこと、今日一日仕事ができたこと、食事が頂けたこと、お茶が飲めたこと、一日の生活のどこを取り上げても、それらのことは当たり前ではないのです。
生かされて生きている生命と、あらゆる天地の中の働き営みが働きあって、成り立っているのです。
あらゆる大会で活躍し、東京オリンピックでもメダルの期待を一身に受けている 水泳選手が、先日〈白血病〉と診断を受けたことを公表しました。『大きな覚悟を持って治療を受けます』との発言は、感動を呼んでいます。しかし、『どうして私なの、今なの?と煩悶(はんもん)すればするほど、混乱し心が苦しくなってくる』とも、心の内を語っておられます。
私たちは、天地金乃神を信じるご縁を頂いたのです。
ここまで神様のおかげを頂いて、生かされて生きてきたことは、間違いのない事実です。ここまでのことを捨てて、これから先があるのではないと思います。
今ここに生かされて生きているという事実があることを、金光教では【おかげの中で病気もし】と教えられ、その神様のおかげの中にあることを、お礼申していこうと教えられてきました。
暦の上では、二月から三月と変わりますが、天地の働き・営みは、間違いなく冬から春に移ろうとしています。
今年も梅の花が咲きました。新しい年を迎えて、ここまで生かされて生きていることを、しっかり受け止めお礼申していくことが、三月ではないでしょうか
そのお礼の生き方を進めて、初めて新学期も、新年度も、四月もやってくるのではないでしょうか。
○天地金乃神は天地を一目(ひとめ)に見とおし、守っておられる。人間は神の氏子、
神のおかげを身いっぱいに受けるように、この身この心を神に向けて信心せよ。
何事も無礼と思わないで一心に取りすがっていけば、おかげが受けられる。枯れ木にも花が咲くし、ない命もつないでいただける。わが身におかげを受けて、難儀な
人を助けてあげよ。【天地は語る 95節】
○神を拝礼するのに、別に決まりはない。実意丁寧、正直、真(まこと)一心がかなめである。日々生かされているお礼を申し、次に、お互い凡夫の身で、知らず知らずにご無礼、お粗末、お気障りなどをしている道理であるから、それをお断りおわび申して、それがすんだら、身の上のことを何かと実意をもってお願いさせてもらうが良い。【 同 166節】
○信心といっても別にむずかしいことはない。親にものを言うように、朝起きたら神にお礼を申し、その日のことが都合よくいくように願い、よそへ行く時には、行ってまいりますと言ってお届け申し上げよ。そして、帰って来たら、無事で帰りましたとお礼を言い、夜寝る時にはまた、その日のお礼を申して寝るようにすれば、それで信心になる。【 同 167節】
金光教は、今年誕生して160年になります。安政6年(1859年)教祖 金光大神様が神様からの頼みを受けて、家業であった農業をやめ、自宅を神の広前として取次に専念することになった。この日を金光教の立教の日と定められました。
《立教160年御礼祈願詞》を只今、ご祈念の中で唱和していますが、その祈願詞の中の一文に《限りなき神慮と御徳(かんみはかりとみとく)の中に生かされて生くる喜び日に日に新た なべての立ちゆき祈らるる》とあります。
響きの良い一文であり、多くの人に口ずさんで欲しい 一文です。
金光教諫早教会長 原 正忠
(教会広報誌のんのこ 2019年3月号より転載)